ただ、風のために。5 (2003/May)

遠い記憶
1999 [01(a,b,c) 02(a,b,c) 03(a,b,c) 04(a,b,c) 05(a,b,c) 06(a,b,c) 07(a,b,c) 08(a,b,c) 09(a,b,c) 10(a,b,c) 11(a,b,c) 12(a,b,c) ]
2000 [01(a,b,c) 02(a,b,c) 03(a,b,c) 04(a,b,c) 05(a,b,c) 06(a,b,c) 07(a,b,c) 08(a,b,c) 09(a,b,c) 10(a,b,c) 11(a,b,c) 12(a,b,c) ]
2001 [01(a,b,c) 02(a,b,c) 03(a,b,c) 04(a,b,c) 05(a,b,c) 06(a,b,c) 07(a,b,c) 08(a,b,c) 09(a,b,c) 10(a,b,c) 11(a,b,c) 12(a,b,c) ]
2002 [01(a,b,c) 02(a,b,c) 03(a,b,c) 04(a,b,c) 05(a,b,c) 06(a,b,c) 07(a,b,c) 08(a,b,c) 09(a,b,c) 10(a,b,c) 11(a,b,c) 12(a,b,c) ]
2003 [01(a,b,c) 02(a,b,c) 03(a,b,c) 04(a,b,c) 05(a,b,c) 06(a,b,c) 07(a,b,c) 08(a,b,c) 09(a,b,c) 10(a,b,c) 11(a,b,c) 12(a,b,c) ]

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2003/05/11 (Sun)

1分でわかるYAML前史

まつもとさんのLinux Magazineの記事ではPerl寄り?だったので、XML寄りの視点から。

xmlhack.comのYAMLの紹介記事にあるとおり、YAMLはsml-dev ML(メーリングリストのほう)で 議論していたSML(マークアップ言語のほう)から派生してできたものです。

sml-dev MLは、XMLのごちゃごちゃした仕様に嫌気が差してきたひとたちが 「もっとシンプルなXMLを!」という思いのもと、 xml-dev MLから分離して作ったMLです。基本的に XMLのサブセットを狙っていて、 YAMLの言いだしっぺの一人であるClark C . Evansもそのつもりだったはず なんですが、 「XMLのサブセットって言っても、結局XMLのツールや拡張規格との互換性はとれないんだよね」というつっこみをうけ、 「じゃあXMLの文法はカンペキに捨てるしか。いや、マジで。 もう<タグ>は逝っていいです。(<かなり誤訳)」と 悟ってしまいます。

その発言から2日後、彼は YAMLの草稿のver.0.1を公開します。これは、Perl風の変数の記号と Python風のインデントを利用した面妖なフォーマットだったんですが、 これを見たsml-dev参加者の一人から、これって Data::Denterに似てるね、と指摘されます。 そこですかさずClark C . Evansは、Data::Denterの作者である Brian Ingersonと メールや電話(!)で意見を交換し、YAMLを協力して開発すること で合意します。これにsml-devの参加者であったOren Ben-Kikiも加わり、三人で まとめている(現在進行形)のが現在のYAML 1.0、なのです。


2003/05/13 (Tue)

やっぱり日本ではblogではなく日記が流行る

ような気がします(とってもいまさらですが)。CMS的な要素を求めるひともいるでしょうけど、 おそらくは「CMS支援機能が充実した日記(システム)」が 広まるだけでしょう。 blogブームに乗りたいひとたちの思惑を無視して、 日本的日記が跋扈する風景を思い浮かべる事はあまりにたやすいことです。 blogを換骨奪胎し、さらなる進化を続けるWeb日記。そういう意味では、 日本におけるWeb日記はいまだ黎明期で、本格的なWeb日記ブームは まさにこれからなのかもしれません。

しかし、blogが流行する可能性もあります。blogが流行するための 条件は数々考えられますが、何よりも重要なカギが一つあります。 それは、「あの小さい文字でも日本語が読みやすい環境を普及させること」です。

……なんかほんとにどうでもいい意見ですみません。 最初はtDiaryやはてなダイアリーやHNSやさるさる日記やnDiaryがある 多様な日記界を肯定的にとらえようとか、 椹木野衣の 悪い場所の話とか、そうはいってもアメリカじゃ 椹木野衣よりも森万里子の方が圧倒的に知られているんだろうなあ とか、いろいろ書こうかと思っていたのですが。

……さらに関係ないですが、本家Yahoo!には Artists > Mariko Moriなディレクトリがあり、 そこからリンクされている MCA Chicagoの森万里子紹介ページからは マリコたんの例のアレが世界に向けて発信されているのを 知って、ちょっとくらくらしてしまいました。

RSS3.0

YAMLを見ていると、どうしてもRSS3.0を思い起こさずにいられません。 そして、RSS3.0を見ていると、どうしてもDI形式を思い起こさずにいられません。

ところで、これからはRSSだRDFだとか言って騒いでいるひとたちって、 RSS1.0->RSS2.0->RSS3.0の話はどう評価してるんでしょうか?


2003/05/14 (Wed)

やみは わたしの こころの すみか

掩蔽観測MLより、 <東京タワー>夏至の夜、一時消灯 環境問題呼びかけと、 1000000人のキャンドルナイト。6/22の夏至の日の午後8時から10時まで、 明かりを消してみませんか、という呼びかけです。

星を見るひとにとって夜空の暗さはたいせつなものなので、賛同したいと思います。

表題は谷山浩子『心のすみか』より。

他者という存在

Wikiと署名に関連して。思いっきり引用します。

私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言うとしよう。 (略)それはただ私ではないもの、私が制御しないものとして在る。私たちは このような意味での他者性を奪ってはならないと考えているのではないか。
(略)
もっと積極的に言えば、人は、決定しないこと、制御しないことを肯定したいのだ。 人は、他者が存在することを認めたいのだと、他者をできる限り決定しないほうが 私にとってよいのだという感覚を持っているのだと考えたらどうか。自己が制御しない ことに積極的な価値を認める、あるいは私たちの価値によって測ることをしない ことに積極的な価値を認める、そのような部分が私たちにあると思う。
だから、私の選択と私の価値を信用しない感覚は確かにあるのだと思う。 私がやったことが私を指し示し、私の価値を表示するという、 すべてが自らに還ってくるように作られているこの社会の仕掛け (第6章第2節で少し詳しく述べる)を信用しない感覚がある。 (略)確かなのは、他者を意のままにすることを欲望しながらも、 他者性の破壊を抑制しようとする感覚があることである。 この欲望を消すことは無理だと思いながら、しかし抑制しようとする時、 ここに述べた感覚があり価値がある。
(略)
こうして辿り着いたのは、自らに発するものが自らのものであるという論理、 論理というより価値観、の単純な裏返しではないにしても、 それと全く別の感覚・価値である。私はそれを私たちが有する価値の事実として 提示したいだけだ。私たちがそれを好むということ、それ以上の理由を つけようとは思わない。この価値も、すべての価値が結局のところそうであるように、 それ以上根拠を遡ることができない。しかし、その点では、私が私の 作ったものを所有するという観念も同格である。そして後でも幾度か見るように、 これが作為を抑制する倫理・感覚としてあるということは、 この倫理・感覚が作為を支持する感覚を凌駕しうることを示している。
(略)
それにしてもこれは、どう考えても、ずい分怪しげな話である。 以上は、私が制御するものこそが私のもの(他者によって奪われてはならぬもの) だという観念と全く正反対のことである。そして、私たちが選択者であることは 確かなことである。 私たちは日々選択しながら生きている。領有しない、制御しない、 そんなことはありえないことだ。
(略)
以上を否定しない。だから、こうした感覚のものにだけ私たちがいるなどとは 到底言えない。だが、このような感覚があると述べるのは、そんなに突拍子も ないことだろうか。私は、私たちの生のすべてがこのような感覚によって 覆われているといっているのではない。 しかし、制御し領有し使用することをそのまま受け入れず、それを制約する、 あるいはそれに抵抗するものがあるなら、それは、詰めてしまえばこういうものだと、 他ではありえないと言っているのである。
(略)
そのような価値を私たちは持っており、多分失うことはないと思う。 人は、操作しない部分を残しておこうとするだろう。それは、 人間に対する操作が進展していく間にも、あるいはその後にも残るだろう。 それは全く素朴な理由からで、他者があることは快楽だと考えるからである。 快楽を、しかもひとまずは苦痛であるかもしれない快楽を持ち出すのは、 真面目な問題を論じるときにはよからぬことだと思う人がいるかもしれない。 しかしそれ以外のどのような言い方があるだろうか。単純な快楽をそれ以外の それ以上のものに持ち上げる必要があるだろうか。(略) まず世界を意のままにする快があり、それを禁圧し抑制するものとしての掟がある のだという、よく持ち出される図式にそのまま載ることはないと思う。(略)

立岩真也『私的所有論』の第四章「他者」より。

最後に「快楽」を持ち出すところは、 たださんの議論によく似ています。

そんなわけで、何度も繰り返しますが、フリーとかオープンとかに こだわるひとは、『私的所有論』を読むことをお勧めします。 きっと何か得られるところがあると思うので。

動機の問題

とはいえ、私見では署名するかどうかという議論は、モチベーションの問題に比べれば かなりどうでもいいことだと思います。署名を残す事によって 文書を書く人のモチベーションが上がるのであれば署名した方がいいでしょう。 署名が消されうることによってモチベーションが下がるのであれば Wiki以外の場所で書いたほうがいいでしょう。それはどんな種類の文書か、 ということよりも、作者に依存する問題です。

フリーソフト・オープンソースソフトウェアにとってもっとも貴重な資源は 「人」であり、人を動かすものは「モチベーション=動機=やる気」です。 やる気を殺いでまで通すべき理屈など存在しません。

まあ、問題はある人のやる気を高めることが、別のある人のやる気を殺ぐことがある、 ってことなんですけどね。

XPとポストモダニズム

圏外からのひとことに、 Yatsuさんのコンピュータ技術と現代社会の引用、 「さて21世紀になって、ふと見渡すと、今度はP2PやeXtreme Programmingのような、ポストモダニズムと捉えられるような思想が出てきました。」 なる発言が。

XPとポストモダニズムの関連を考えるのは非常に興味深いのですが、 少々無理があるのでは。 なんだかんだいっても、普通に言ってるXPとかAgileとかいうのは 構築主義にべったり依存しているので。 「設計中心主義批判」も、 「設計中心だとフィードバックが遅れるから」というとっても 構築主義的な理由によるものですし。

東浩紀は『ポストモダニズム再考』(「郵便的不安たち#」所収)で 「ポストモダン」と「ポストモダニズム」について、いくつかの 用法に区別していましたが、「XPはポストモダニズム的」と いうときのそれはどの用法に近いんでしょうか。

……と思いながらYatsuさんの過去ログをさかのぼると、 三上文法の話が。そういえば 「『象は鼻が長い』入門」について書いたときに こちらのページを拝見したような記憶があります。遅ればせながら リンクしておきます(_o_)


2003/05/16 (Fri)

XPとポストモダニズム続き

Yatsuさんよりお返事が。どうもありがとうございます。 というか、「構築主義的」というのはまったく意味不明でしたね。 どうもすみません。ここは広く「合理主義」とか、 あるいは「効率優先」とか書くべきでした。

XPをポストモダニズムにたとえる構図に私が違和感を感じたのは、 Yatsuさんの例で言うなら、「構造を受け入れつつそれを侵犯する両義的身振り」 と、XPあるいはAgileはほぼ正反対の方を向いているからだと思います。 両義的身振りに満ちた製作物(ソフトウェア開発ならプログラムやテストコードや 設計書・図・メモ)なんて、想像するだにおそろしすぎます(汗 XPは それとは逆に、他の方法論の人よりも できるだけ素朴な記法で簡単に記述するために注意を払っている ように見えます。

また、

1. 設計を絶対化しない
2. 軽量で状況適応型
3. システム、要求仕様を動的なものとして捉える

というXPの特徴は、確かに「ポストモダニズム」にも 共通するところがあるかもしれませんが、別にポストモダニズムに 限定する必要もないのでは。 それよりも、ローティとかのプラグマティズムを 持ってきたほうがよりわかりやすいんじゃないでしょうか(ローティ以外の プラグマティズムはよくわかってないのでパス。や、ローティのプラグマティズムは ちょっと独特らしいというのは聞いてますけど)。 これはもちろんAgileの代表者の一人(二人)、Dave ThomasとAndy Huntが 「Pragmatic Programmers」を名乗っているためでもありますが、 たとえば上の命題なんかも「『真理』を絶対化しない」とか、 「倫理を動的なもの(可変なもの)として捉える」と言い換えれば、まさに ぷらぐまちっくな感じがします。

また、プラグマティズムに対しては「相対主義的」とか「無邪気」などの 批判がありますが(そうじゃないという反批判ももちろんありますが)、 確かにXPも、堕落するとその辺が弱点になりかねないかも、という気がします。

文学の実装に関する試論

思い出し日記より、 赤間啓之「文学の実装に関する試論 物語世界の登場人物、およびその固有名の、オブジェクト指向プログラミング言語による設定について」。こ、これはちょっと……。

まだちゃんと読んでないですが、 プログラミング言語のモデルと、プログラムしたい対象のモデルとを むりやり結び付けようとするのはよろしくないのでは。 Javaのインターフェースを「契約によるプログラミング」と結びつけるのは ちょっと違いますし(やっぱり事前条件や不変条件もほしい)、 その上それを「根本的恣意性」とかに無理矢理関連させると、 バートランド・メイヤー(契約によるプログラミングのえらいひと)に 殺されるのでわ。





written by TAKAHASHI 'Maki' Masayoshi (maki@rubycolor.org)
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