2002/07/27 スパイラルホール6階にて, TAKAHASHI 'Maki' Masayoshi
※注:これは高橋が当日とっていたメモを元にしたもので、実際に話された 内容とは異なるところが多々あります(たぶん)。正確さは期待しないでください。
最初に挙手によるアンケート
ドクメンタ11を実際に見に行った人: 3名ほど
それ以前にドクメンタを見に行ったことのある人: ちらほら
知らない人が多いので、基本的なところから説明。
ドクメンタの概要説明。
1955年にスタート、決して長くはない。
東西ドイツの国境付近の街で開催。政治的意図--第1回は退廃芸術。
現代美術の最前線の記録を残そう、という目的が「ドクメンタ」という名前に 反映されている。
はじめて見に行ったのは第6回。ボイスが全盛で、
コンセプチュアリズムの時代 黒・白・銀ばっかり。
ほとんどが文字を使用。
ぽたぽた油みたいなのがたれている物があった。作品かどうかも 良く分からなかったが妙に気になった。あとで「ハニーポンプ」という 有名な作品だとわかった。
優れた作品は、全然知らなくてもある種の感銘を与えることがある。
それ以降、87年、92年、97年に参加。
ドクメンタの特徴:ディレクター。10回目はフランスの女性。PC的?
次は第三世界かと思っていた---11回はナイジェリア出身
規模。横浜トリエンナーレは6億(実際には……金額は計算の仕方が難しい)に 対し、Documenta11は14億円。相当な規模。
ベニスビエンナーレは各国がお金を出しているが、Documentaは1つの有限会社が やっている。
Documenta方式のメリット:一人が自由にやれる、メッセージを作りやすい
ディレクターの力を発揮しやすい
最近ではヴェニスも変わってきている
10回よりかなり変わった
今回は西洋以外の人がディレクター。美学上の問題を扱うより社会思想を踏まえた上で 美術はどうするのか、少しずらして美術はどうあるのかを考える。
テーマに対するアプローチ全体が「作品」となっている。完結していない。
Documentaは「まじめ」
一般的に「歴史」というものは、団体・個人が重要だと思われるものを時系列で
並べている。全てを記述していない 偏っている
(権力による)歴史に対抗する
レバノンの歴史を扱った作品
レバノン紛争の時に使われた車の写真 アノテーションつき
作品というより資料性が高い
競馬の写真で賭け事をしていたり
黒人運動に対する「熱さ」の差
マイノリティに対する視線と方向
パレスチナ
「From To 2002」(?) ロッテルダムでもやったやつ
メディアには流れない類のコミュニケーション
国境にチェックポイントというものがある
今回の特徴:集団でのプロジェクトが多い
イタリアのグループ 小アジアから難民を乗せた船がくる その経路を再現(?)
セネガルのグループ セネガルとグローバルをつなぐ試み
メキシコとアメリカの国境の映像を流す 不法出入国問題
「これ売れないだろう」作品を観ていると思う
Documentaは図書館とか資料館
ベニスはそのまま売れる 商業ベースに乗せられる
モダニズム・ポストモダニズムの文脈----カッティングエッジ
でも、Documentaは「新しく」ない----光が当てられないもの
グローバリズム、西洋中心主義に対抗する「知」のアーカイブ
知ることについての別の方法/別の物事を知る方法を提示する
まとめ
派手なスペクタクル・ドラマ性はない
小さな物語を集積する
プラットフォーム5
人々が話し合うことに信頼を置いている
「DirectorというよりDictator」(笑)
「Documentaは英語中心主義だ」という批判
でも、言語はツール、英語を使って「対話」していくことを重視
英語はそのためのプラットフォーム
「対話」はシリアスなもの、決して楽しいわけではない
ウガンダ アジア移民排斥法の後
悲惨な出来事の後の静かなランドスケープ
Documentaには一緒に行った人とは会話できないくらいの内向性がある
内向的なシリアスさ←私は評価している
個人的に今回の裏テーマ「無意味さ」「ユートピア」
新しい作家よりキュレーションの方向性を実現できる作家を選ぶ
空想建築が多かった
ユートピア(=一つの共同幻想)
それは存在しないけれど、対話を通して肯定していくことはできる
ギャバ アフリカンコンテンポラリーアートの人
美術に関する書籍を集めたアーカイブ
美術館に批判的
自分でライブラリを作る 機能として提供
マニフェスタ 資料を集めてきた人に見せる
作品ではなく、資料として
アキュームレーション
美術館の機能に対する批判
見せること偏重 国際展とか
それよりも、ものを集めることに重点を置く
作品そのものではなくドキュメンテーションとして見せる
↑それは「アート」か?
カタログの中に書かれている言葉
「ドキュメンテーションという形でしか見せたいものを指し示すことができない、 そういう世の中になってきているのではないか?」
小さなナラティブというものだけが限定的な時間を与える
とにかくドキュメンテーションが多かった
全部観るのに4日かけた
資料、ビデオ(映像作品)が多かった
今回の特徴
映像も資料として使われている
フィクションより現実にアーティストの興味が向いている、と思う
プラットフォーム1-4:レクチャー(講演)とディスカッション
ベルリン、ウィーン、アフリカ、西インド諸島、インド(ニューデリー)
現代アートよりも現代思想のそうそうたるメンバーが集まる
理論的なことをレクチャー
「知」 作品提示以前の前段階の準備が必要だった
このやり方は批判される論点になるかなと思う
作品傾向: シリアス まじめなものが多い
見栄えは良くない
一方でエンターテインメント・派手なものがある
両者が拮抗してきた←今までの文脈
近代を支えてきた神話
ポストモダンでは両者が両立しなくなることを示す
オグウェイはシリアス系を取り上げた 一方を選択
今回のDocumentaはある意味ではその集大成だった
いわゆるドキュメンタリー形式が多い 現実問題に対する解決にはならなくても関心を招く
Multicultualizm
MajorityではなくMinorityに徹している
回顧的になったり、ユートピアを再考したり
Documenta 11でのポイントとなる作品が2つある。
89年に行われた似たような試み、マジシャン・トラテールから10年以上たって何が変わったか?
マジシャン・トラテール自体は評判が悪かったが、
「一つの現代美術の流れが変わった」とも言われている。
マジシャン・トラテールでは西欧的なものと非西欧の土着なものとを雑多に並べたが、 コンテクストがめちゃくちゃになってしまった。
今回はきわめて知的で、土着的なものが感じられない
「すごくヨーロッパ的」インテレクチュアルを重要視
ドラスティックなものを期待(でも、そんな物はあるのだろうか?)していたのだが、 そのようなものは提示できていない、と思う。
展覧会は一つのおまつり 巨大な展覧会をぶち壊してしまうのような力を持った物はなかった 「優等生的」
ドキュメンテーションは複製可能――アウラを持っていない
土着的なものはその場所ではアウラを持っているが、
移動させるとそのアウラは失われる危険がある。ドキュメントにはそれがないのが利点になりうる?
アメリカの雑誌・新聞は批判的 あるメディアには「All Politics, Little Art」などと
書かれた。「アメリカを悪の帝国視している」
一方、ヨーロッパは比較的好意的に評価している。評価の違い。
Documentaはハードルが高いと思っていたけど、今回は疲れた 言語の問題
現代美術が難しいというのはよく言われることだし、 当たり前だけど、それをひしひしと感じる。 他の人がそう言うのがよくわかる
コンテクストを知らないと、知的レベルが高くないと判らない 現代美術がこんなところに来てしまっていいのか? 行き詰まっている?
(回答)
日本には特にそういう他者理解の必要性を感じない・感じさせようとしない
社会的コンテクストがある
今回はお手上げ まったく分からないが故にそれを考える必要があるのではないか
Platform 1-4は少なくとも読むべき しかし、言語のバリア(英語)がある
でも、現実問題として日本人も英語を話せるようになるようにさせられている
そのような社会的圧力の存在
日本の特殊事情からくる違和感
「アートとは何か?」 背景がわからないといけない
他者を理解するということはつらいことでもある
「アートを通してつらい思いをしろ」と言っている?
言語がくっついていないとアートが分からない
(会場)
場所についてと日本人の作品について
今回はアジアは少なかった(「今回も」というツッコミあり)
「美術は資料じゃないだろ」
これは美術館・美術展でやるものではないのではないだろうか?
(回答)
アフリカの作品をぽんと持ってくると理解が限定される危険性が高い
(オザワツヨシは似たようなところがある?)
ドキュメントを見せるだけではない
あるレベルには達している でも、ドキュメント
大きな図書館に行くと、読んでいない本がたくさんある
打ちひしがれるけれど、喜びでもある それに似ている
最後に、それぞれにもっとも印象に残った作品を一つずつあげていって終了。